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2007年10月16日

松本城について調べてみました。

松本城(まつもとじょう)は、長野県の松本市にある城。天守は国宝に指定され、市民からは別名烏城(からすじょう)とも呼ばれ親しまれている。「烏城」を「うじょう」と読むと岡山市の岡山城の事を指す。昔は、深志城(ふかしじょう)と呼ばれていた。国指定史跡にもなっている。

天守について
今や全国に12箇所しか現存していない、江戸時代以前に建造された天守を有する城郭の一つである(現存天守、国宝)。

5重6階の天守を中心にし、乾小天守を渡櫓で連結し、辰巳附櫓、月見櫓を複合した連結複合式天守。初期の天守に多く見られる下見板張が特徴。

解体修理の時、幾つかの改築の痕跡が見つかっていることなどから創建当時は、望楼型で最上階には廻縁高欄や破風を多く取り付けた姿であったと推定され、付属櫓・月見櫓を増築した松平氏によって現在のような層塔型のように造りかえられたのではないかといわれている。

2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(29番)に選定され、2007年(平成19年)6月から全国規模の日本100名城スタンプラリーが開始された。

歴史について
戦国時代、信濃国中部を治めていた甲斐源氏の名門、小笠原氏が1504年に二の丸を築き、深志城と命名したのが始まりといわれている。以後、同じ甲斐源氏である武田氏の侵攻を受け武田氏の支配下となる。武田氏の没落後は、小笠原氏の子孫である小笠原貞慶が武田氏から奪還し、以後は徳川家康の支配下におかれ、配下に支配が委ねられた。

豊臣秀吉が徳川家康を関東に転封したのちは、元の家康の重臣の石川数正が配置された。石川数正とその子康長が、天守を始め、城郭、城下町の整備を行う。

江戸時代は、松平康長や水野家などの松本藩の居城として機能。水野家の後は松平康長にはじまる戸田松平家(戸田氏の嫡流)が代々居城とした。

明治30年代ころより天守が大きく傾き、明治36年より大正2年まで明治の大修理がおこなわれた。

貞享騒動(加助騒動、嘉助一揆)の首謀者・多田嘉助が磔刑に処せられる際、天守を睨んで絶叫した怨念によって傾いたといわれる伝説は、城が傾き始めた明治になってから作られた伝説である。現在では、軟弱な地盤(元々この地は深瀬・深志と呼ばれる沼地で、城の始まりは沼の畔の館である)の上に天守を構築する工法として採用された天守台の中に埋めこまれた16本の支持柱が時代を経て朽ち、土台構造物を失った天守が自重で沈み込んだ事が傾斜の原因であると判明している。

享保12年(1727年)には本丸御殿が焼失、以後の藩政は二の丸で執務がとられた。

明治維新後、1872年に天守が競売にかけられ、一時は解体の危機が訪れるが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れる。

昭和5年(1930年)国の史跡に指定された。

1936年(昭和11年)4月20日には天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓の5棟が国宝保存法により、当時の国宝に指定され、1952年(昭和27年)3月29日にはこれら5棟が文化財保護法によりあらためて国宝に指定されている。

明治時代の二の丸の筑摩県庁火災で延焼しなかった御金蔵が現存している。

移築現存門としては、安曇野市内堀金地区に大手門二の門を移築したという伝承の薬医門がある(安曇野市指定文化財。但し、この門を所有している家が所蔵する書状によると、六九町にあった郡役所の門を移築したことになっている)。 また、松本市新村地区には、城の南門の扉を使用したという長屋門がある。

この他にも、松本市及び周辺の市町村には松本城内の武家屋敷より移築したとされる民家の門が数多くある。


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